50代の成長 potterjake 

自分の在り方探しとその日々の記録

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考えなし ~愚かな男のお気楽人生~

登場人物 直人と千都子

エピソード5

いつもの生活

昨日、呑みすぎたかな?
もう、こんな時間かァ
いっつも、そうだ 昨日あんなに飲まなきゃいいのに
まだ、酒残ってるかなぁ

もう2回スヌーズしよ

ピピピッ ピピピッ ピピピッ …



ピピピッ ピピピッ ピピピッ  …

もう、起きなきゃ


おはよう

って、まだ起きてないか



キッチンの滞在時間が長くなりそうな素敵なキッチンツール
に出会えるかも


償いきれない 裏切り行為

私には、とても素晴らしい妻がいます。
高校生の時に出合い
彼女は可愛らしく
純粋で、‘’THE ALFEE‘’ がとても好きな女の子でした。
出会った頃、私はバレーボール部で他校との試合に応援でギャラリーにいました。
彼女は他校生で同じくバレーボールの応援に来ていました。
友達同士が付き合っていたため、私たちも知り合うことができ、私は彼女にひとめぼれです。
その後お付き合いできることになり、二人でたくさんの思い出を作ることができました。

私は、彼女のことが大好きで、大好きで仕方ありませんでした。

当時は、携帯電話もなく電話と言えば‘家電’です。
ご両親のことは怖いながらもお互いドキドキしながら夜中迄電話でたくさん話しました。(よく話すことがあったなぁどおもいますが)


そんな彼女と10年以上お付き合いして、彼女が30才になる前に結婚することにしました。

ご両親に挨拶に行く時は、やはり緊張して怖かった記憶があります。

当時の会社の上司に仲人をお願いし、一般的な形の結婚式を挙げることができました。

結婚当時は、お互いの収入はそれぞれが好きに使っていました。

生活費もお互い好きなものを買ったりして、水道光熱費は、私の給料からだったと思います。

なので、私の場合残りのお金を好きに使っていました。

私は、パチスロをやっていたのですが、ほぼ毎月使い果たす程勝てないのにやめることもなく過ごしていました。

お酒も好きなので会社の仲間と良く呑みにもいって遅くなると嫁さんに迎えに来てもらったりしてましたが、自分の給料の範囲ですんでいて、毎月貯金はできないけど、嫁さんとも仲良く楽しく暮らしていました。

子供にも恵まれ親としての生活を迎えました。


子供が生まれてからは、それまで給料を好きに使っていた為貯金もなく、嫁さんとも話し合い、給料を嫁さんに預けお小遣いで過ごすことに決めました。

今までのお金の使い方では到底過ごすことはできないので、ここで日々の過ごし方を変えなければいけなかったのですがこの時、自分の選択を間違えていました。

使えるお金を増やそうと、パチスロを選んでやってしまいました。

お金がなくなったら、翌月まで我慢すんのが普通の人の選ぶ道なのですが、私は、借金をする道を選んでしまいました。この道も選択してはいけない道でした。

普通の人は、そんなに簡単に消費者金融からお金を借りる選択はしません。

私の場合、以前勤めた会社で消費者金融から借金をした経験があり、借金をする行程を知っていましたので、多少の後ろめたさはあっても、その方法を選ぶことを簡単に判断してしまいました。

その後は、嫁さんに内緒でパチスロやスナックに飲みに行くことが平気になり、借金の自転車操業になって行きました。

結果は、嫁さんにバレて、嘘をついていたことや隠し事をしていたことで嫁さんを泣かせてしまい、本当に辛い思いをさせてしまったことを本当に申し訳ないと反省し、話し合い、嫁さんがためてきてくれたお金で借金の返済をしてもらいました。

ここで、大切な嫁さんと子供を守っていくチャンスをもらったのに、また、2年後借金を始めていました。


2番目の子供ができたとき、嫁さんが里帰り出産の為実家に帰っているときも、スナックで飲んだり、バチスロをしたりして、また、同じ裏切り行為をしていました。

嫁さんに迷惑になることはしていないつもりで、前と同じことをしていたのです。

バレなければいいと思っていました。
その後、家を建てることを決意し実際に契約をして建築を始めていました。

この時は、嫁さんも本当に喜んでくれて自分自身も誇らしく思っていましたが、心の内ではバレないように心配で仕方なかったです。

そして実は、祖母に相談をして、借金の返済を済ませたので家の建築も実現したのです。(ここまで書いていて、私は、本当に最低なやつだとつくづく感じます)

家も完成し、嫁さんと子供二人と新しい家での生活が始まりました。

この後も、何度も嫁さんを裏切り、その度に嫁さんが泣くのが切なくて、「もう、絶対にしない パチスロも借金も、絶対にしない」と誓い、嫁さんとも話し合い、その度に嫁さんは許してくれたのに…

また、裏切ってしまいました。

何度も、何度も私を許して、元通りの生活をしようと思い直してくれた嫁さんを、また、裏切り悲しませてしまった。

もう、「許せない」
「信じられる訳かない」
「どんなに反省しているように見せかけても、これだけ裏切られて許したら、私がバカじゃないかと、思われる」
「私をあなたの狂った人生に付き合わせないで」
「あなたとは生きる価値観が違いすぎる」
「もう、あなたのことは好きじゃないから」
「もう、私を自由にして」
「あなたと一緒にいる意味がない」
「これから大切にするんじゃ遅いよ、もっと前からどうして大切にしてくれなかったの?」
「このまま、なあなあでずるずるしていたくないから、ちゃんと結論出そう」



そんな風に、彼女に考えさせてしまうほど、私は、彼女を裏切ってしまっていたのに

私の思う何を伝えても
「彼女が受けた心の傷は癒せないのかなぁ」
「私は、彼女に必要ないのかなぁ」
「彼女は、どうして自分が辛い方のことを考えてしまうのかなぁ」

なんて、私が考えるのは、間違っているのでしょうか?

私が彼女への罪を償う方法はないのでしようか?

彼女の前から私が居なくなることが彼女にとって一番いい方法なのでしょうか?

私が彼女の近くで、償いながら、幸せに過ごしていきたいと思うことは許されないことなのでしょうか?

彼女が許してくれなくても当然で、それでも彼女にそばにいて欲しいと思うことは、本当に自分勝手で彼女のことを思いやれないとんでもなく、最低なやつだと自分でもわかります。


「私は彼女に笑顔で過ごして欲しい」
「私は、彼女に幸せでいて欲しい」
「私は、子供たちに幸せでいて欲しい」
これを本当に願っているんだろうか?
その自分自身への疑心もあるなかですが、自分勝手な思いで、嫁さんにそばにいて欲しいと思っているのかもしれないけど
今の自分ができるのは、もう2度と同じ裏切りをしないこと、大好きな嫁さんの笑顔が将来にわたって続き幸せに過ごせることを普通に願えるようになることだと考えています。

どうしても、その思いだけは持ち続けたい。

新しい出合い

今日出会った人達は最高

仲間を助ける気持ち

仲間を思う気持ち

仲間になる

仕事の段取り

仕事への取り組み

仲間への心配り

大切なことを教えてくれてる
仲間が居ました


一緒にBBQでもやりたいと思っています。

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ゆ 陶酔庵Jです。 2020年3月28日から 借金返済のために引っ越し屋で アルバイトを始めたのですが、 50代の私には 体力的、精神的にキツイ環境を選んだなぁ と思います。 ただし、職場の皆さん1人1人はとても優しく お客様思いで、やらされている仕事ではなく お客様のために、会社の仲間のために 段取りを工夫し、お客様との折衝をし、動く とても、優れた社員の方々だとおもいます。 まだ、引っ越しのアシスタントとして しっかりフォローしたいなぁとおもいます。

はじめての転職

こんにちは、陶酔庵Jです。

はじめての転職で勤めた会社の時期の思い出

当時、最先端の業界で、勤めた会社の仕事は

いきなり、大手通信機器メーカーへの出向でした。

出向先は、一部上場の大手でしたが、メーカーとしての順位は5,6番目の企業でしたが、田舎から出たことがなかった私にとっては、華やかな時期でした。

職場の人達や街で見かける人達は、都会に暮らす都会人に見えて、だいぶ尻込みしていました。

最初の1ヶ月位は電車通勤にも慣れずアパートと勤務先の往復だけで、過ごしていましたが、職場の皆もそれぞれの田舎から来ていたので、馴染めば楽しい職場でした。

良く飲みにも行き下北沢が大好きな街でした。

出向先での仕事は、当時NTTが主体となって大手通信機器メーカーが共同(競争)で開発に取り組みはじめたインターネット環境の構築に関わる事でした。

通信のネットワークで世界中が繋がる(World Wide Web)と言う構想が造られ、INSやISDNの規格が決められた時期でした。

まさに、今のインターネット時代のスタート地点に携われたのです。


出向社員の身であり二十歳位の若造ながら、アセンブラー言語が得意だったので、そのプロジェクトのソフトウェア部隊で外注(フリーのプログラマー)の取りまとめ役を任せてもらい、ここでも少し有頂天になっていました。


そこでは、C言語を学び、製品のデバッグなどで今では考えられない残業をこなし、納品まで立ち会う事ができました。


今よりも、メモリ容量の少ないデバイスをいくつもいくつも使って出来上がったハードウェアは、基盤の数ばかり多いバカデカイものでした。


そういう時期を経て、今のような高速通信のネットワークがあるので、ある意味、自分が携われたことに誇りを持っていつつ、出向元の会社に対して、自分の存在が不可欠ではないかと感じるようになっていました。

今考えると、他の社員の皆さんも同じようにバリバリ貢献されていたと思いますが、自分は誰にも負けてないと思い込み、のぼせ上がっていましたね。


思い出すと、本当に恥ずかしいです。


ただ、自分の実力は測れませんが、当時、取りまとめを担当していたフリーのプログラマーの皆さん(3人)から

一緒に独立して、会社を作らないかとお誘いをいただき(のぼせ上がっていたわりにその時は勇気がなくお断りしてしまったのですが・・・)自分には力があるんだなと、思っていました。


そんな感じでしたので、出向が終わり、一段落した機会に、会社との条件の食い違いを理由に、次の転職に向けて考え出したのです。


次はなんと、ソフトウェアの開発ではない方向に行きたくなったんです。

機械を相手にプログラミングして、プログラム通りに機械を動かす事が当たり前過ぎて、人との関わりがないんじやないか

なんて、浅はかな事を考えはじめ(もっと別の考え方ができれば、その先に人との関わりを見出だせたのかもしれませんが)、人と直接関わる仕事、人に感謝される仕事がしたい、とか言ってましたね。


そこで、探したのがイベントなどを手掛ける企業でした。当時、県内で博覧会の計画が発表されていて、そこに興味があったんです。

ここまでが、私の有頂天時代です。


2回目の転職先での思い出は、また次回。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。

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